シネマトーク #01 『PERFECT DAYS』(2023)
ガラージュが映画について語るシリーズ「シネマトーク」。
第一回はヴィム・ヴェンダース監督による映画『PERFECT DAYS』(2023)について、学生メンバーも交えて語り合った。
◆馴染む建築 / 目立つ建築
小田切
まず全体的な印象について、この映画は「The Tokyo Toilet」っていうプロジェクトの広告的な側面があるよね。
例えば冒頭のシーンでも、役所広司(平山)が一日の始まりに自宅で丁寧に仕事の準備をする。その流れで「The Tokyo Toilet」のロゴが背中に入った制服を着るシーンが印象的に撮られているけど、それを観た瞬間に急に興覚めするというか、「そういう企画の映画だよなあ」って現実世界に引き戻されてしまう。
その上である意味面白いと感じたのは、あの映画に登場するトイレ建築に対しても似たように感じることがあったということ。興覚めを感じたトイレと、感じないトイレがあった。
映画の中の風景として馴染んでいるトイレと、そうじゃないトイレっていうのが、作家のデザインの違いによってけっこう分かれているというところが面白かった。
そもそも自分はこの映画を観る前から、「普通の公衆トイレで撮った方が純度が高い作品になったのに」と思っていたんだけど、意外と馴染んでいるものもあった。安藤忠雄さんのと、伊東豊雄さんのは意外と良かったな。
代々木八幡公衆トイレ (設計:伊東豊雄) (写真:柴田達乃助)
神宮通公園トイレ (設計:安藤忠雄) (写真:柴田達乃助)
渡辺
映画そのものが複数の作家が作った建築作品に対する批評みたいになっている?
小田切
「批評的に観ることができる」、という感じかな。
建築家が設計した建築って、都市の中で目立つ存在になりがちだけど、それが良い目立ち方もすれば悪い目立ち方もしちゃうことがあるから、一般の人たちにはいろんなことを言われてしまう…。そのこと自体について考えさせられる。
瀬尾
うんうん。
小田切
自分たちが公衆トイレを設計することになったときに、普通のトイレを作った方が都市にとっては良い場合もあるんだろうか…とか、そういうことを考えさせられたな。
渡辺
安藤さんのトイレはどこが良かったの?
小田切
渋谷の都会的な雰囲気に馴染んでいるというか、その空気感の中に自然とスッと建っている感じがして、「オレを見てくれ」という感じがあまりしなくて良かった。
渡辺
その話を聞いて、隈(研吾)さんが設計した渋谷駅のガラスのファサード(JR渋谷駅改修計画)のことを思い出したな。
あれを当時担当していたのが藤原(徹平)さんなんだけど、「渋谷駅を映画に登場させるぞ」という意気込みでデザインしたらしい。
あの雲をプリントしたガラスのファサードが実際に映画に映るようになると、街の顔となった実感が湧いたと言っていたな。
今となっては「あれが渋谷だ」とイメージが刷り込まれたのもあって、自然な風景に見える。奇抜な形ではないけどどこか特徴があって、都市のイメージとして刷り込まれるデザインを狙ったのは、なるほどうまいなと思った。しかも単なる模様ではなく熱環境を調整する機能もあるという。
瀬尾
建築を撮影する立場として、今の話は特に動画というメディアにおいては重要な問題だと思う。
アイコニックな建築を撮るときに、アイコン性が先立ってしまって、ブツ撮りっぽくなっちゃうというか…。そういう建築が悪いという意味ではないんだけど。
じゃあ実際「空間」は撮れるのかと考えたら、撮れるのかどうか怪しいなと思うこともあるんだけど、すごく上手い写真家が撮ったものとかを観ると「空間」が写っているんだよね。
そういう意味では、建築の問題だけでなく、撮る側の問題もあったりして、その点『PERFECT DAYS』は、ちょっと怪しいなと思ってしまった。
でもそれは「The Tokyo Toilet」というプロジェクトの性質の問題でもあると思う。
実際、世界には普通のトイレも必要だし、ああいうアイコニックなトイレがあることも必要だとは思うんだけど。
小田切
例えばアイコニックな建築の映像を撮るとさ、外観が一つの重要な絵になるよね。
でもそれってどこか建築家がいつも欲しがるような外観写真的・外観パース的になって、その建築自体が主役の絵になるじゃん。
そういうシーンの中で、その建築の手前に役者がいて話していたら、絵として成立するのかということを考えると、主題が二つ混在しちゃってるみたいになることがあるよね。
瀬尾
そうだね。
小田切
だから違和感があるのかなっていう気もするんだけど。
それが普通のトイレだったら、やっぱり役者が話しているシーンとして自然に観れると思うんだよね。
今この話をしていて思い出したんだけど、黒沢清監督の『CURE』(1997)にさ、でっかい木造建築が出てくるじゃん。
あれは外観が印象的に撮られてバッと急に登場するけど、あの構図の中の役者は全然目立っていなくて、主題が混在していない。
ああいうところもあって、黒沢さんの映画は建築的に観れるのかなと思った。
「建築映画館 2023」のときも『クリーピー 偽りの隣人』(2016)を上映したけど。
建築映画館2023のフライヤー (グラフィックデザイン:鈴木哲生) (写真:瀬尾憲司)
瀬尾
それはあると思う。
黒沢さんは引きの絵を入れるタイミングに、ちゃんと建築を見せてくるような絵を作ってるんだよね。
小田切
みんな「建築を撮るぞ」と思って撮っているかはわからないけど、建築的に撮れている映画と、それが上手くいっていない映画はある気がしていて、その点今回は全体の印象がガチャガチャしている感じがあったなあ。
瀬尾
アイコニックな建築で言うと、兜町の日証館が映るじゃん。
あれは首都高を通る車を手前のビルから撮っていて、首都高越しに日証館が映っていたけど、アイコニックなのになんか溶け込んでいたよね。
小田切
ちょうどこの前「東京建築祭」の兜町ツアーに参加したんだけど、あのエリアは渋沢栄一が銀行を作ったりしていて、一帯の建築が川側のファサードを顔にして設計されていたらしい。
今はその川の上に首都高があるけど、ヴェンダースが撮った兜町のシーンは、無自覚かもしれないけどそういう都市の歴史的な風景を上手く撮ったんじゃないかな。
ヴェンダースはSANAAが設計したROLEXラーニングセンターの映像とかも撮っている。西沢(立衛)さんからヴェンダースとの会話の内容を聞いたことがあって、彼は建築の性質を読み取る能力に長けていると思ったから、不思議な話ではないよね。
瀬尾
あの兜町のカットはすごく良いなって思ったんだよね。
一方で、なんか現代の建築家が作るものが、商業的にアイコニックになることを求められることがあると思うんだけど、その視覚的なアイコン性が重視されている社会になっている気がしていて、それには違和感を感じるな。
小田切
そうだね。
渡辺
「馴染んでいて良い」っていう評価軸があっても良いよね。
瀬尾
そうそう。
◆移ろいを撮ること
小田切
瀬尾がこの前ユーロスペースのトークショーに登壇していたときのヴェンダースの映画(『都市とモードのビデオノート』(1989))を観たときにも感じたんだけど、彼はなにか移ろうものに興味があるような気がする。
あの映画も首都高の映像が印象的だけど、『PERFECT DAYS』の日証館のシーンもこれにかなり近かったよね。
今回の映画では木漏れ日を撮っていたことにも共通した感覚があると思うな。
吉武
映画の中で、木漏れ日の写真、ずっと撮り続けてましたね。
安藤さんのトイレの内観も、光が透けて見えたり、陰が落ちたりして、光がゆらゆら映っている感じは、木漏れ日に近いものがあると思いました。
神宮通公園トイレの通路の内観 (設計:安藤忠雄) (写真:吉武洋輔)
瀬尾
ヴェンダースにとっての建築は、そういうことだったのかもしれない。
なんか、映画ってさ、撮ってる側の自意識が無いと撮れないと思ってて。写真だったら、狙わないと撮れない写真もあるけど、狙わなくても撮れちゃうことがある。
『PERFECT DAYS』みたいな、ああいうカット割とかちゃんと決めるような映画だったら、なおさら「狙ってなかったけど撮れちゃった」ってことは少ないと思うんだよね。少なくとも撮っているときに意識的でなかったとしても、編集する段階では意識的にそうしたカットを入れることになるよね。
小田切
移ろうことを、ヴェンダースは建築と捉えていたのかな。
いや、逆か。建築の中に撮りたい映像性があったということか。
木漏れ日と建築が偶然似たように「撮れちゃった」のではなく、狙って撮ってたんだろうね。
◆ヴェンダースが撮りたかったものとは?
小田切
そう考えると、坂茂さんのトイレは、外装のガラスが透明になったり不透明になったりして、特殊なギミックがあるけど、あれも「移ろい」として撮られていたのかな。なんか意外と映画に馴染んでるなと思ったんだけど。
代々木深町小公園トイレ (設計:坂茂) (写真:柴田達乃助)
瀬尾
あのトイレはさ、建築関係の人は映画を観る前から知ってるじゃん。
だけど、あのトイレを知らない人が観たら、「この映画なんなの」って感じだと思うよ。「なんでこんな変なトイレしか出てこないの?」って。
小田切
それはそうかも…。
川本
隈さんのトイレは意外と浮いてるっぽくて浮いてなかった気がしました。
小田切
個人的にはあれに関してはめっちゃ浮いてると思ったなあ。
鍋島松濤公園トイレ (設計:隈研吾) (写真:柴田達乃助)
川本
パッと見は浮いてるんですけど、例えば中を掃除しているときに、内装の丸太に挟まったタバコを取るところとか。
小田切
自分は逆にむしろ不自然すぎると思った。
「ここにゴミを挟んで、役所広司に取らせよう」って計画してたわけだよね。
鍋島松濤公園トイレの内観 (設計:隈研吾) (写真:柴田達乃助)
瀬尾
そうそう、なんかそういうプロセスが想像できちゃって気になった。
そういう作業がトイレのデザインに対する一つの解釈を与えているわけじゃん。なんかその解釈の与え方にすごい映画の作り手側の自意識を感じちゃって、ノイズに感じちゃったな。
渡辺
あの映画に映っているトイレって、さっきの小田切の話でいうと、背景というよりもむしろ役者みたいな扱いで撮られてたんじゃない?
あの建築も登場人物みたいなものじゃん。
いくつものトイレ建築に対して、人物的に撮っているのか、背景的に撮っているのか、その意識は通底していたのかな。
瀬尾
それで言うと建築に対する態度はブレていると思った。
建築を特別視している感じでもないショットもたまにあったし。さっきの話の日証館とか。普通にこっちの方が良いじゃん、みたいな。
渡辺
その日証館のショットは、それこそ「狙ってなかったけど撮れちゃった」という可能性はない?
小田切
『都市とモードのビデオノート』を撮った監督の作品であるという背景を考えると、あれは「狙って撮った」と言えると思うけどな。
瀬尾
『都市とモードのビデオノート』も、首都高のショットから始まるじゃん。
ヴェンダースは明らかに好きなんだよ。首都高とか。
『PERFECT DAYS』も首都高のシーンがめちゃくちゃ多いし。本当は絶対(トイレより)首都高の方が撮りたいんだろうなって思った。
小田切
役所広司(平山)の家さ、あれ多分墨田区とかあっちの方だよね。東側の。スカイツリーも映ってたし。
そこから毎朝わざわざ車で西に移動して渋谷に向かうわけでしょ。
家賃が安いからとかもあるかもしれないけど、あれは首都高を走らせて日本橋のあの辺のルートを通らせたいと考えて設定しているはずなんだよね。
それで、カセットテープで好きな音楽を流すっていう。
実際、渋谷はそんなに撮りたかったのかなあ。
瀬尾
普通に東京に住んでいる人の感覚からすると、なんて不合理な働き方をしているんだって感じだよね。
映画として撮らなきゃいけないことと、撮りたいことが、ちょっと一致していない感じがする。
人間ってみんな人間が好きだから、画面に映っている人間を見ちゃうんだよね。
画面に映っている割合としては人間の方がはるかに小さくて、建築の方が大きいのに、人間を見てしまう。それくらい、人間が持っている求心力ってすごい。役者が持っている求心力はなおさら。
自分も建築の映像を撮るときに人間を入れて撮ったこともあったんだけど、なんか人間に引っ張られちゃうなと思った。
そういう経緯から、この前撮ったシールの映像(『Blue Box Office 建築映像』(2024))を考えたんだよね。
小田切
っていうか今更だけどみんなこの映画は観てるんだよね?
瀬尾
渡辺、観てないでしょ。
小田切
観てないのかよ!!
渡辺
うん。観てないで参加している。
瀬尾
こいつ観てねえだろうなと思って聞いてた。
小田切
まあ、観てないで語れるのも技術か…。
他のみんなはどうですか?
◆映画にハマる建築とは
柴田
トイレがいらないなって思いました。トイレのシーン、なんか普通に良くない。
瀬尾
僕には主人公の設定は、トイレを掃除していることに劣等感を持っているおじさんに見えた。
そう考えると、綺麗なトイレだと話に合っていないのでは。
小田切
そうなんだよね。劣等感を持ってても、結局掃除しているのは綺麗にデザインされたトイレなんだよな。
隈さんの丸太にタバコが挟まってたからとは言え、なんかもうそれくらいは全然オーケーでしょ、みたいな。
瀬尾
トイレってもっと汚いじゃん。なんかその汚さのリアリティは無かったよね。本当に汚いものを映さなくても、そういう感じを出すことはできるし。
小田切
柄本時生(タカシ)が「他の現場でゲロの掃除をした」みたいなセリフを言ってはいたけど、「The Tokyo Toilet」の現場ではそういうことは起こってたっけ。まあでもそれはアレかな、プロモーション的にNGだったのかな。
瀬尾
その可能性はあるよね。
吉武
それについては僕は逆だと思ってて、主人公自身はトイレ掃除に劣等感は持っていないと思うんですよね。周りの人がそういう扱いをしているだけで。
小田切
うん、だとしたら尚更フィクションの作り方としては綺麗なトイレだとダメじゃない?
「汚いトイレを掃除しているけど、その仕事に誇りを持っている」という設定にした方が筋が通ると思う。
柴田
そもそもあのトイレじゃない方が良かったんじゃないかとは思いました。
吉武
確かに、普通の公衆トイレで良かった。
小田切
それで思うのはさ、じゃあ自分たち建築家は、普通のトイレを作れないのか、っていう。
やっぱりどうしても他とは違う変なトイレを求められるというか、それを作らされる人間としてでしか、東京では仕事ができないのか、ということも思ったりしたんだよね。
柴田
あの映画に合うというか、よく映るようなトイレを設計することを、考えたいなって思いました。
瀬尾
その話で思い出したんだけど、『ブラックレイン』(1989)の中の建築は、ぴったりハマって映ってたと思うんだよね。
なんか時代のノリもあるのかなと思うんだけど。イケイケの時代に作られた建築を、イケイケの資本で撮っちゃうみたいな。
そう考えると、時代的に尻すぼみな中で、建築家が今日本で作っているものって、街中で浮いちゃってるのかな。
◆建築のエイジング問題
渡辺
例えば村野藤吾のトイレ(宇部市渡辺翁記念会館に隣接する公園の公衆トイレ)とかはさ、トイレ自体もめちゃくちゃ綺麗にデザインされているけど、環境自体がデザインされているとも思う。
そういうトイレであれば、同じテーマでも全然撮れるんじゃないかって思う。
エイジングがあるから馴染んでいるっていうのもあるかもしれないけど。渋谷という街とトイレが切り離され過ぎているのかもしれないね。
宇部市渡辺翁記念会館に隣接する公園の公衆トイレ (設計:村野藤吾) (写真:渡辺瑞帆)
瀬尾
エイジングっていうのも重要なポイントかもね。
小田切
それはそう思う。
建築の竣工写真って、基本的には外装も内装もピカピカの新品で、外構の植物も育っていないよね。
「竣工写真」としてその在り方は確かに正しいんだけど、本当の建築の姿っていうのはその後に始まっていく時間の流れの中にあると思うし、映像だったらその姿を撮れると思う。
そういう意味では、『PERFECT DAYS』に映るトイレの映像はピカピカに見えるし、映像だけど「竣工写真的」であると言えるのかもしれない。
それってある意味もったいない。
瀬尾
それは絶対そうだね。
そこがダブルスタンダードなんだよね。
映像は竣工写真的なのに、物語は全くそうじゃないっていう。
吉武
この映画を観ていて思ったんですけど、どの建築も、その街の匂いがしない感じがして、浮いている感じがしました。
なんかもっとそのトイレを通して、その街の人がどういう人間がいるのかとか、息遣いとかが見えてくるような作品になったら、もっと面白かったかもしれないですね。
瀬尾
確かに、それはそうだね。
それ、ちょっとヴェンダースに言った方が良いよ。
◆建築をイジり倒す
川本
なんかみんな割とトイレがもっと馴染んでいたら良かったっていう感じじゃないですか。
自分としてはあれを観たときに、首都高のシーンとかは確かに撮りたくて撮ったんだろうなと思ったんですけど、この映画の良かったシーンは全部移動しているシーンだなって気づきました。
それで、言い方が悪いかもしれないですけど、その中で「浮いている」トイレって、もうヴェンダースがイジりまくってるんじゃないかと思いました。
小田切
なるほど!
川本
木漏れ日が落ちている天窓とか、タバコが挟まっている隙間とか、ヴェンダースが一個一個トイレを掃除しながらイジっていく、みたいな。
ツッコミを入れてやろうというか、トイレをイジり倒してやろうというか。
イジって移動を繰り返す、みたいな。
それが軽快に、60-70年代の音楽のリズムと一緒になって、めっちゃ軽快に。
なんかあのトイレを変に上手く撮ろうとか、馴染ませて撮ろうとかじゃなくて、いかにこれを面白く料理するか、みたいな感じだったと思いました。
そこが観ていて心地よかったです。
瀬尾
なるほどね。そういう見方をすれば、確かに。
小田切
やっぱり設定的にはどうしてもさ、『パターソン』(2016)を連想するじゃん。
ああいう映画が頭にあると、トイレの浮いた感じがどうしても気になってくるけど、確かにそういう見方をすれば全然違って見えてくるな。
川本
僕も最初は『パターソン』が頭にあったんですけど、冒頭30分くらいで、これは絶対『パターソン』じゃないと思い、見方が変わりました。
小田切
一方でさ、なんか「何気ない日常の繰り返しで、でもたまにちょっとした出会いとか事件がある」みたいな、そういう『パターソン』的な演出を実際入れてもいるよね。
いつもお昼ご飯を食べている場所の隣のベンチに、なんか変な人がいる、みたいな。
劇中で平山がいつも昼食をとるベンチ。代々木八幡公衆トイレの近くにある。 (写真:吉武洋輔)
代々木八幡公衆トイレへつづく階段。 (写真:柴田達乃助)
川本
確かに、ちょいちょいそういうところは、「それ感」を演出しているようには見えるかもしれないです。
小田切
だからそういう風に見ちゃったな。
瀬尾
やっぱりなんか全体として拡散している感じはあると思うな。
やんなきゃいけないこととやりたいことが混ざっちゃってるよね、という感じ。
小田切
僕らはやりたいことをちゃんとやると肝に銘じて、これを教訓として締めましょうか。
2024年6月4日
岩本町、ガラージュ東京オフィスにて
参加者:
小田切駿(建築家 / ガラージュ)
瀬尾憲司(建築家・映像作家 / ガラージュ)
渡辺瑞帆(建築家・セノグラファー / ガラージュ)
川本航佑(明治大学大学院 修士課程)
柴田達乃助(早稲田大学理工学術院 修士課程)
吉武洋輔(横浜国立大学大学院Y-GSA 修士課程)
編集:小田切駿
カバー写真:柴田達乃助